日本人の食文化に欠かせない『米作り』。
農家の方々のおかげで当たり前のように手に入るお米ですが、
・「米作りが始まったのはいつ?」
・「稲作により歴史はどうなったの?」
・「お米は世界と日本で違いがあるの?」
と考えてみると〝お米のすばらしさ〟が見えてきます。
そこで本記事では、『日本で米作りが始まった時代とルーツ』について徹底解説いたします。
この記事はこんな方にオススメ
この記事を最後まで読んでいただければ、『日本で稲作が始まった時代やコメの文化と歴史との関係』について知ることができますよ!
米作りに興味を持たれた方や、稲作の起源や歴史を学びたいという方のお役に立てれば幸いです。
※いち早く内容を知りたい方は「目次」より読み飛ばして下さい。
[稲作の歴史]ルーツの真実を探る
稲の栽培は、原始時代に野生の稲の種子を蒔き収穫したのが始まりと言われています。
それは約3万年前の「石器時代」!!
この時代の食料といえば〝動物〟や〝魚〟、〝木の実〟などを取って食べるというイメージですが、
この頃からすでに〝食料を生産する時代〟への移り変わりは始まっていたのです。
稲作の原型もとも言えるこの行動によって、人々は一定の土地にとどまり生活するようになったと言われています。
日本の米作りの歴史を知ろう!!
稲を大きく分類すると、
・アジア原産の〝アジア稲(オリザサティバ)〟と、
・西アフリカ原産の〝アフリカ稲(オリザグラベリマ)〟
があり、世界の生産量の90%以上がアジアで作られています。
そのアジア稲は形や大きさなどの特徴から、
・日本型「ジャポニカ米」
・インド型「インディカ米」
・ジャワ形「ジャバニカ米」
の3つに分類されます。
つまり私たち日本人に馴染み深いお米は「ジャポニカ米」です。
では、日本に稲作が上陸したのはいつなのか?
これについては、
・中国・長江下流から北九州へ渡来した〝長江中・下流域説〟
・香港などを通る珠江中流域から台湾を経由し渡来した〝珠江中流域説〟
など様々な説があります。
地域を特定するまでの結論は出ていませんが、稲作の伝来こそが社会の始まりであり
日本国家の始まりでもあったと言われています。
稲作の伝来ルートとは?
日本への稲作伝来ルートは3つあると言われています。
①山東半島または中国大陸から朝鮮半島を経由し、西北九州に渡来したルート。
考古学的な研究に基づいた説です。
②長江流域から東シナ海を経由し、西北九州に渡来したルート。
中国と日本にはあり、朝鮮半島にはない〝稲の遺伝子〟が存在することから、長江下流域と西北九州の間に直接交流があったのではないかという推定に基づいた説です。
③「海上の道」から九州に渡来したルート。
民俗学者である「柳田國男氏」が唱えた説で、沖縄や離島に稲作遺跡が見られないことから、
水田を必要としない〝熱帯ジャポニカ〟であれば、東南アジア地域から台湾→南西諸島を経由し九州に渡来したのではないかという説です。
稲の日本への伝来ルートも確定されたものではありませんが、
ロマンがあり、もしかすると全てのルートが実在したのかもしれませんね(^^)
世界で見る!稲作の歴史
稲作がどこで始まり、どのように広まっていったのかは
人類の歴史において最も重要な事柄のひとつと言われています。
ん~~~!!
確かに気になりますよね(-_-)
アッサム-雲南説
かつて稲作の起源は、インド東部のアッサム・ミャンマー・ラオス及びタイ北部から中国雲南省にかけての山岳地帯とする
「アッサム-雲南説」が定説とされていました。
アジア稲作圏の古代のレンガに含まれた籾殻(もみがら)を採取し、品種の流れをたどった実証的なフィールドワークから推測された説で、
約4,000年前のものと推察されています。
長江中・下流域説
1980年代以降、次々と発見された水田耕作遺物や遺構から出土した籾(もみ)のDNA分析により、
長江付近の河姆渡(かぼと)遺跡の炭化米がすべて〝ジャポニカ種〟の遺伝子であることを解明。
それにより日本のジャポニカ米の起源ではないかと推定された説。
約7,000年前と推察されており、現在では一般的な説とされています。
米作りの始まり〝縄文時代〟説!!
1960年(昭和35年)以降、西北九州の縄文遺跡である
・福岡市の〝板付遺跡〟や
・唐津市の〝菜畑遺跡〟などから
稲の栽培が行われていた裏付けが発見されました。
弥生時代よりもさらに数百年昔の縄文時代後期に遡り、現在では通説とされています。
米作りの始まり〝弥生時代〟説!!
「竪穴式住居」や「高床式倉庫」の遺構、大規模な「水田跡や井戸跡」といえば静岡県の〝登呂遺跡〟。
こちらは聞き覚えのあるキーワードではないでしょうか。
日本史の教科書にも取り上げられている、日本の水田稲作の始まりは〝弥生時代〟とする説です。
1947年(昭和22年)に行われた発掘調査により、様々な遺跡が弥生時代の地層から発見されたことによる学説です。
稲をめぐる争いや国家勢力
弥生時代中期に広まった「高床式倉庫」には、お米などの穀物を蓄えることができました。
稲は長期保存ができるので食料に困らなくなり、人口が増え村ができるようになりました。
その反面、蓄えの多さによる貧富の差が生まれます。
村同士は戦いと協力を繰り返しながら、より大きな村になり
やがて小さな国になったと言われています。
紀元後3世紀の日本には30もの国があったと言われ、最強の国は誰もが学校の授業で聞いたことがあるであろう
「女王・卑弥呼」が統率する〝邪馬台国〟であったと伝えられています。
国々はやがて統一されて「日本」という大きな国へとなりました。
お米の文化と歴史との関わり
私たち日本人にとって〝お米の文化と歴史〟は大きな関わりを持っています。
昔から米を「ご飯」としてだけではなく、様々なものに加工し食文化を豊かにしてきました。
例えば
米麹(こめこうじ)
米麹(こめこうじ)とはカビの一種で白米のデンプンを糖化させる働きがあり、ビタミンB群が豊富に含まれています。
この米こうじを生かした発酵食品に代表されるのが
・日本酒(純米酒)
他にも
・甘酒
・べったら漬け
・焼酎
・米酢
・米味噌
など。
そして
米粉(こめこ)
米粉(こめこ)は穀粉(こくふん)とも呼ばれるコメの粉。
・団子
・草餅
・柏餅
・最中
・大福
・和菓子
などの原料として用いられています。
歴史の観点から見ても米の役割はとても重要!
古来より日本人は〝五穀豊穣〟を願い、祈りや感謝の気持ちを表し様々な行事やお祭りを行ってきました。
お祝い事といえば「赤飯」をはじめ
・正月にお供えする「鏡餅」
・ひな祭りの「ちらし寿司」や「草餅」
・端午の節句の「柏餅」や「ちまき」
・七夕の「そうめん」
・十五夜の「月見団子」
・春分の日の「ぼたもち」
・秋分の日の「おはぎ」
・大晦日の「年越しそば」
など。
どれも一度は食べたことがある馴染み深いものばかりです(^^)
行事食は美味しいばかりではなく、仕事の疲れを乗り切る〝食の知恵〟として受け継がれてきたのです。
【まとめ】
本記事では、『日本で米作りが始まった時代とルーツ』についてご紹介いたしました。
日本の米作りの始まりは、
西北九州の縄文遺跡である
・福岡市の〝板付遺跡〟や
・唐津市の〝菜畑遺跡〟などから
稲の栽培が行われていた裏付けが発見された
〝縄文時代〟説と
「竪穴式住居」や「高床式倉庫」の遺構、
大規模な「水田跡や井戸跡」が発見された静岡県の〝登呂遺跡〟を起源とする
〝弥生時代〟説があります。
日本への稲作伝来ルートは3つあり
と言われています。
稲作の始まりや日本への伝来ルートなど確定されたものではありませんが、
今後の研究や調査によって新たな事実がわかるかもしれませんね(^^)
米作りの歴史に触れることで、〝お米のすばらしさ〟を知ることができ
これまで以上に感謝の気持ちで
ご飯が美味しく食べられそうですね!
『日本で米作りが始まった時代を検証!稲作の歴史をまるごと解説!!』を、最後までお読みいただきありがとうございました。
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